2007年 08月 19日
URAの海外旅行30周年(2007年08月19日) |
URAの海外旅行30周年
1977年08月17日が初の海外旅行の出発日なので、08月17日が海外旅行の記念日となる。記念の第1回は、「アメリカ西海岸とハワイ」だった。主なコースは、次の通り。
第001回 1977年08月17日~24日・8日間
01米国(ロサンゼルス・ヨセミテ・フルズノ・サンフランシスコ)
02ハワイ(ホノルル)
ちなみに、最初の数字は、国番号で、米国とハワイは一応区分している。この番号は、現在80で、つまり30年間で80ヵ国訪問したことになる。
参加者は川崎市教職員互助会のメンバーで、団長は教職員組合の書記長だったと記憶している。サンタモニカの小学校を訪問して、交流を深めたが、先方は商売熱心でTシャツをお土産に買うことになった。
最初はロスについて、その日は、そのままホテルで宿泊。プレスリーが死去した次の日だ。ホテルはダウンタウンのヒルトンホテル。好奇心旺盛なので、早速、夜のダウンタウンに出かけたが、怖いもの知らずだった。色の黒いおにいちゃんが、じろじろと眺め、本当に怖い思いをした。ホテルのロビーでは、ステテコ姿のオッサンとも出会い、少しだけ恥ずかしい思いをした。
フリータイムの時に相棒がグリフィス天文台に行きたいというので、途中からタクシーに乗ったところ、高額のドル紙幣しかなく、つり銭はないという。うーん。確かつり銭なしで、高額のドル(金額は忘れた)を支払ったと思うが、こんな時はVISAでOKとは後で知った祭りだった。ドライバーは女性で大喜びだった。サンキュー、サンキューの連発だった。
ディズニーランドには、オプションに参加しないで、電車で出かけた。スペースマウンテンで、メガネがふっ飛んでしまって、怖い思いした。幸いメガネは足元に落ちたので、ラッキー。
市内ではバスにも乗ったが、運ちゃんから、「ジャップ、ハリアップ」と言われた。どうして日本人と分かったのかな…。
バスに乗って驚いたことは、「トランスファー」の制度。乗り換えの際、運ちゃんにトランスファーと言うと、別のチケットが出て来て、これを次のバスに乗る時に示せばよい訳だ。英語も分からずによくもバスに乗ったものだ。幸い、相棒が無線をしており、聞き取りがOKだったので、2人で1人前の英語だったと思う。
フレズノのモーテルでも、「ジャップ…」と言われた。大人のくせにプールの中で、皆で騒いだからだ。大半のアメリカ人はプールサイドで読書の最中だった。
米国で二番目に古い国立公園である「ヨセミテ」を訪問したことも大きな収穫だった。公園を管理するレンジャー制度が確立しており、日本との違いを感じた。メインの「花嫁のベールの滝」は水不足でカラ滝だった。大きな松ボックリが随所に転がっており、驚いた。自然のままで、これが当然観光資源でもある。
シスコでは、世界で一番大きいと言われるチャイナタウンへ出かけた。ラーメンを食べたが、細麺で、口に合わず、最初の海外での中華はさんざんだった。
フレズノでは、郊外のモーテルに泊まったため、タクシーでダウンタウンへ出かけた。ダウンタウンと言っても、大したところではなく、少しだけショックを受けたが、当時から郊外型ショッピングセンターが機能していたのだ。
肝心のハワイは2泊で、ホテルは日航のイリカイホテルだった。タクシーでワイキキまで出かけたところ、運ちゃんから「ユー ウエット?」と言われる。水泳パンツだったので、ぬれていると思ったのかな…。
ロス、フレズノ、シスコ、ハワイの旅だったが、考えてみれば、思い出の多い旅だった。ハワイでは、同行のおばちゃんからカップヌードルを頂いて、日本への自分自身のお土産とした。
この時使った小遣いは何と20万円。両親へオメガの夫婦時計を買った。ハイ、6万円でした。当時の小遣いは旅費の2倍と言われた時代である。
URAが海外旅行で使ったお金で、一番多い金額は20万円で、いままで2回ほど使った。もう一回はソウルの旅だ。何に使ったのか忘れたが、牛の革ジャンを5万円で買ったことを覚えている。ブランドはTOKYOで、どうせ買うなら羊にすれば良かった。この革ジャンは、現在でも、たまに着ます。
ちなみに、2回目以降の海外旅行は、以下の通り。
第002回 1977年12月30日~1978年01月02日・4日間
03フィリピン(マニラ・タガイタイ)
これは3人で出かけた。JTBのツアーでメンバーは30人くらい。1人だけ女性がいて、あとは全員男性だった。機内食が出たのに、夕食がついて、本当に驚いた。いまのツアーでは考えられない。
第003回 1978年08月12日~26日・15日間
04イギリス、05ユーゴスラビア、06イタリア、07バチカン、08スイス、09西独、10東独、11フランス、04-2イギリス
川崎市教職員互助会のツアーに参加。メンバーは女性が多い。メインは川崎市の姉妹都市であるリエカ(ユーゴスラビア)の訪問。大変な歓迎を受けた。マスコミにも出たと言う。川崎市では、その後、何回もこのツアーに参加した連中と会合を持っているらしいが、当方は、転居先の住所不明と言うことで、連絡は無い。
ユーゴからイタリアに高速道路で入った訳だが、全員、イタリア通貨がなく、有料トイレを無視したため、管理のオバサンが鬼の形相をしていたことが懐かしい。これを踏み倒しと言う。こんな時は、添乗員が何とかしてよ。ベネチアのゴンドラに、また乗りたいよ。
第004回 1978年12月27日~30日・4日間
12台湾(台北・花蓮)
JTBの忘年会ツアーに3人で参加。てっきり団体と思ったが、3人ツアーだった。台北の空港では、現地ツアーの違うガイドについて行って、大変なことになった。最初に行ったところが、喫茶店?。女の子が沢山いた。どうやら何とかツアーだ。ホテルに行くと、正規のガイドが待っていた。名前は「湯天国」。いまでも覚えています。
花蓮から台北へは強風のため、飛行機が飛ばず、フェリーで基隆行きとなった。翌朝、基隆に着くと、ガイドが待っていた。その後、温泉地の勉強で、新北投温泉へ行ったが…。これまた大変のことになった。この話は、「世界を歩く、地球を回る」に書いています。
第005回 1978年03月26日~29日・4日間
13韓国(ソウル・慶州)
初めての春休みの旅行。2人で参加して、山梨県の老人団体に入った。老人とはいえ、キーセンパーテイがあって、ちとビックリ。
以下、海外旅行30周年の思い出などベスト10
01.参加者との出会い、現地の人との交流
現地の人の場合、土産物屋のオヤジが妙に親切に付きまとうので、だまされたことが数回。
02.本物の景色・景観・歴史・文化との出会い
スイスのU字谷、カナダの氷河、ノルウエイのソグネフィヨルド、エジプトのピラミッド、中国の万里長城など多数。
03.カンビオの世界
カンビオはスペイン語で交換の意味。中南米では、カンビオを何回も行った。腕時計、着ているシャツなど。腕時計は5個ほど持って行って、民芸品とカンビオした。
04.体調不良
下痢は2回だけした。1回目はイスラエル。土産品店で、無料ジュースを3倍飲んで、下痢。3日間絶食だった。2回目はシリア。原因不明で、やはり3日間絶食。
あとは原因不明のフラフラ。ロンドンで4週間ホームステイをしたところ、いつの間にか、フラフラ。帰国後検査すると、神経の使い過ぎらしい。
05.凝り性
凝り性で、現在、中国通いが続いている。理由は、そう、アナタの考えた通りです。
06.熱い&寒い
数年前、ロシアの夏は本当に熱かった。暑いを超えたと思う。当然、夏のエジプトも熱い。
寒い思いは、チュニジアでした。冬の砂漠は風が強くて、寒い。アルゼンチンの夜行バスも寒かった。メンドーサーからブエノスアイレスまで夜行バスに乗ったが、これが意外と寒かった。
07.資金繰り
中南米の旅費は120万円。オヤジから頂いた退職金の一部60万円を勝手にこれに使用。このまま残しておれば、現在250万円かな。
2人で出掛けた西欧ツアーも、1人当たり80万円だった。大金だと思う。主にユーレイルパスの旅だった。
08.ガラクタ収集
世界のガラクタを集めたと思う。しかし、死海の水と塩は、いつのまにか捨てられた。この恨みはきっと…。
09.次の旅の楽しみ
現在、訪問国が80ヵ国なので、次の訪問国を探すことが楽しみだ。どこか紹介してよ。
10.旅の記録
これがなかなか出来ない。少しずつ書いているが、集大成は難しい。どうせゴミのような文章なので…。しかし、URAらしく価値ある情報提供が出来れば、と思っている。(続く)
(2007年08月22日更新)
1977年08月17日が初の海外旅行の出発日なので、08月17日が海外旅行の記念日となる。記念の第1回は、「アメリカ西海岸とハワイ」だった。主なコースは、次の通り。
第001回 1977年08月17日~24日・8日間
01米国(ロサンゼルス・ヨセミテ・フルズノ・サンフランシスコ)
02ハワイ(ホノルル)
ちなみに、最初の数字は、国番号で、米国とハワイは一応区分している。この番号は、現在80で、つまり30年間で80ヵ国訪問したことになる。
参加者は川崎市教職員互助会のメンバーで、団長は教職員組合の書記長だったと記憶している。サンタモニカの小学校を訪問して、交流を深めたが、先方は商売熱心でTシャツをお土産に買うことになった。
最初はロスについて、その日は、そのままホテルで宿泊。プレスリーが死去した次の日だ。ホテルはダウンタウンのヒルトンホテル。好奇心旺盛なので、早速、夜のダウンタウンに出かけたが、怖いもの知らずだった。色の黒いおにいちゃんが、じろじろと眺め、本当に怖い思いをした。ホテルのロビーでは、ステテコ姿のオッサンとも出会い、少しだけ恥ずかしい思いをした。
フリータイムの時に相棒がグリフィス天文台に行きたいというので、途中からタクシーに乗ったところ、高額のドル紙幣しかなく、つり銭はないという。うーん。確かつり銭なしで、高額のドル(金額は忘れた)を支払ったと思うが、こんな時はVISAでOKとは後で知った祭りだった。ドライバーは女性で大喜びだった。サンキュー、サンキューの連発だった。
ディズニーランドには、オプションに参加しないで、電車で出かけた。スペースマウンテンで、メガネがふっ飛んでしまって、怖い思いした。幸いメガネは足元に落ちたので、ラッキー。
市内ではバスにも乗ったが、運ちゃんから、「ジャップ、ハリアップ」と言われた。どうして日本人と分かったのかな…。
バスに乗って驚いたことは、「トランスファー」の制度。乗り換えの際、運ちゃんにトランスファーと言うと、別のチケットが出て来て、これを次のバスに乗る時に示せばよい訳だ。英語も分からずによくもバスに乗ったものだ。幸い、相棒が無線をしており、聞き取りがOKだったので、2人で1人前の英語だったと思う。
フレズノのモーテルでも、「ジャップ…」と言われた。大人のくせにプールの中で、皆で騒いだからだ。大半のアメリカ人はプールサイドで読書の最中だった。
米国で二番目に古い国立公園である「ヨセミテ」を訪問したことも大きな収穫だった。公園を管理するレンジャー制度が確立しており、日本との違いを感じた。メインの「花嫁のベールの滝」は水不足でカラ滝だった。大きな松ボックリが随所に転がっており、驚いた。自然のままで、これが当然観光資源でもある。
シスコでは、世界で一番大きいと言われるチャイナタウンへ出かけた。ラーメンを食べたが、細麺で、口に合わず、最初の海外での中華はさんざんだった。
フレズノでは、郊外のモーテルに泊まったため、タクシーでダウンタウンへ出かけた。ダウンタウンと言っても、大したところではなく、少しだけショックを受けたが、当時から郊外型ショッピングセンターが機能していたのだ。
肝心のハワイは2泊で、ホテルは日航のイリカイホテルだった。タクシーでワイキキまで出かけたところ、運ちゃんから「ユー ウエット?」と言われる。水泳パンツだったので、ぬれていると思ったのかな…。
ロス、フレズノ、シスコ、ハワイの旅だったが、考えてみれば、思い出の多い旅だった。ハワイでは、同行のおばちゃんからカップヌードルを頂いて、日本への自分自身のお土産とした。
この時使った小遣いは何と20万円。両親へオメガの夫婦時計を買った。ハイ、6万円でした。当時の小遣いは旅費の2倍と言われた時代である。
URAが海外旅行で使ったお金で、一番多い金額は20万円で、いままで2回ほど使った。もう一回はソウルの旅だ。何に使ったのか忘れたが、牛の革ジャンを5万円で買ったことを覚えている。ブランドはTOKYOで、どうせ買うなら羊にすれば良かった。この革ジャンは、現在でも、たまに着ます。
ちなみに、2回目以降の海外旅行は、以下の通り。
第002回 1977年12月30日~1978年01月02日・4日間
03フィリピン(マニラ・タガイタイ)
これは3人で出かけた。JTBのツアーでメンバーは30人くらい。1人だけ女性がいて、あとは全員男性だった。機内食が出たのに、夕食がついて、本当に驚いた。いまのツアーでは考えられない。
第003回 1978年08月12日~26日・15日間
04イギリス、05ユーゴスラビア、06イタリア、07バチカン、08スイス、09西独、10東独、11フランス、04-2イギリス
川崎市教職員互助会のツアーに参加。メンバーは女性が多い。メインは川崎市の姉妹都市であるリエカ(ユーゴスラビア)の訪問。大変な歓迎を受けた。マスコミにも出たと言う。川崎市では、その後、何回もこのツアーに参加した連中と会合を持っているらしいが、当方は、転居先の住所不明と言うことで、連絡は無い。
ユーゴからイタリアに高速道路で入った訳だが、全員、イタリア通貨がなく、有料トイレを無視したため、管理のオバサンが鬼の形相をしていたことが懐かしい。これを踏み倒しと言う。こんな時は、添乗員が何とかしてよ。ベネチアのゴンドラに、また乗りたいよ。
第004回 1978年12月27日~30日・4日間
12台湾(台北・花蓮)
JTBの忘年会ツアーに3人で参加。てっきり団体と思ったが、3人ツアーだった。台北の空港では、現地ツアーの違うガイドについて行って、大変なことになった。最初に行ったところが、喫茶店?。女の子が沢山いた。どうやら何とかツアーだ。ホテルに行くと、正規のガイドが待っていた。名前は「湯天国」。いまでも覚えています。
花蓮から台北へは強風のため、飛行機が飛ばず、フェリーで基隆行きとなった。翌朝、基隆に着くと、ガイドが待っていた。その後、温泉地の勉強で、新北投温泉へ行ったが…。これまた大変のことになった。この話は、「世界を歩く、地球を回る」に書いています。
第005回 1978年03月26日~29日・4日間
13韓国(ソウル・慶州)
初めての春休みの旅行。2人で参加して、山梨県の老人団体に入った。老人とはいえ、キーセンパーテイがあって、ちとビックリ。
以下、海外旅行30周年の思い出などベスト10
01.参加者との出会い、現地の人との交流
現地の人の場合、土産物屋のオヤジが妙に親切に付きまとうので、だまされたことが数回。
02.本物の景色・景観・歴史・文化との出会い
スイスのU字谷、カナダの氷河、ノルウエイのソグネフィヨルド、エジプトのピラミッド、中国の万里長城など多数。
03.カンビオの世界
カンビオはスペイン語で交換の意味。中南米では、カンビオを何回も行った。腕時計、着ているシャツなど。腕時計は5個ほど持って行って、民芸品とカンビオした。
04.体調不良
下痢は2回だけした。1回目はイスラエル。土産品店で、無料ジュースを3倍飲んで、下痢。3日間絶食だった。2回目はシリア。原因不明で、やはり3日間絶食。
あとは原因不明のフラフラ。ロンドンで4週間ホームステイをしたところ、いつの間にか、フラフラ。帰国後検査すると、神経の使い過ぎらしい。
05.凝り性
凝り性で、現在、中国通いが続いている。理由は、そう、アナタの考えた通りです。
06.熱い&寒い
数年前、ロシアの夏は本当に熱かった。暑いを超えたと思う。当然、夏のエジプトも熱い。
寒い思いは、チュニジアでした。冬の砂漠は風が強くて、寒い。アルゼンチンの夜行バスも寒かった。メンドーサーからブエノスアイレスまで夜行バスに乗ったが、これが意外と寒かった。
07.資金繰り
中南米の旅費は120万円。オヤジから頂いた退職金の一部60万円を勝手にこれに使用。このまま残しておれば、現在250万円かな。
2人で出掛けた西欧ツアーも、1人当たり80万円だった。大金だと思う。主にユーレイルパスの旅だった。
08.ガラクタ収集
世界のガラクタを集めたと思う。しかし、死海の水と塩は、いつのまにか捨てられた。この恨みはきっと…。
09.次の旅の楽しみ
現在、訪問国が80ヵ国なので、次の訪問国を探すことが楽しみだ。どこか紹介してよ。
10.旅の記録
これがなかなか出来ない。少しずつ書いているが、集大成は難しい。どうせゴミのような文章なので…。しかし、URAらしく価値ある情報提供が出来れば、と思っている。(続く)
(2007年08月22日更新)
by infoura | 2007-08-19 18:14 | メッセージ

